真保裕一氏は、98年2月27日から10日間の日程で、ベトナム、タイの取材に出かけた。ベトナムは、ホーチミン市内を中心に、中部の商業都市・ダナン、ダナンから1時間くらいのところにあるホイアン、そして、メコン川下流のミートー。取材は早朝から深夜におよんだ。「シクロ」とよばれる「人力タクシー」のドライバー、かつて難民として国を捨てた経験がある人たち、スラム街に住む住人など、精力的にまで取材を重ね、日本にいては窺い知ることができない「ベトナムの現実」に触れてきた。

 観光名所にいかない「ベトナム旅行」

 ベトナムについて何も知らなかった。かつてフランスの統治下にあり、独立後に大国アメリカと戦って勝利を収めたアジアの一国。枯葉剤、ボートピープル、民族衣装のアオザイ。私のベトナムに関する知識は、それくらいのものだった。なのに、小説の舞台に選ぼうというのだから、無茶と言えば無茶だ。かつて私は、ただ友人がその地に赴任したからと、何も知らないフィリピンを舞台にミステリを書き、散々苦労した経験がある。にもかかわらず、今また同じ過ちを犯そうとするとは、学習能力がない証拠かも知れない。

 ひねくれた話ばかり書いているため、私の小説中に観光名所はまず登場しない。そのため取材中の予定は、警察、スラム街、チャイナタウンに怪しげな夜の店々など……。実は昨年もロサンゼルスへ行ったのだが、到着するなり刑務所と拘置所をはしごし、その後はロス暴動の際に名をはせた危険地帯を回って来た。とてもではないが、のんびり異国情緒を味わっていられるような旅ではなくなる。

 であるからして、土壇場になっても覚悟が決まらなかった。そんな私の手から、週刊現代編集部のK氏はパスポートを奪い去り、ベトナム入国のためのビザと航空券の手配を完了した。こうして退路を断たれた私は、関西国際空港発のホーチミン・シティへ向かう直行便の乗客となったのである。

 ホーチミンは「ホンダ」で溢れかえっていた

 現地時間、午後6時20分にタンソンニャツト空港へ到着。敷地内のあちこちには、ベトナム戦争の名残と見られる古い格納庫が点在していた。銀色の衝立の向こうには、なるほど社会主義国を思わせる、赤と白に彩色を施された戦闘機の姿もちらほらと見えた。

 到着ロビーにて、現地でのコーディネイトをしていただく、H氏と合流。このH氏は、ただ今ユーラシア大陸を歩いて横断中の旅行者である。昨年まで日本のラジオに旅先から出演し、その放送を聞いた某テレビ局のプロデューサーが、売れない二人組の若手芸人をユーラシア大陸へ派遣した、との話もある。H氏は、資金がつきると日本へ一時帰国し、週刊現代でライター業を務めてはまた旅へ戻る、という生活を7年間続けている。旅にかけては歴戦の勇者で、これ以上心強いパートナーはいない。

 空港を出ると、まずバイクの多さに圧倒された。噂には聞いていたが、その数の夥しいことといったらない。よく中国の街並みを紹介した映像で見かける自転車の大群を、そのままバイクへ置き換え、さらに総数を2倍から3倍にした風景を想像していただきたい。路上はバイクだらけ。車はその隙間を縫い、遠慮しながら走らねばならないほどなのだ。

 ベトナムでは、バイクを「ホンダ」と呼ぶ「ホンダ」以外はバイクにあらず。庶民の誰もが、こぞって「ホンダ」に乗りたがる。どんなに細い路地だろうと、多少の段差は何のその、街の隅から隅まで分け入り、文字通り市民の足と化していた。特に若者たちは、夜な夜な深夜までバイクに乗り、ただただ街中を徘徊する。それが彼らにとっての最大のレジャーであるらしい。

 ホーチミン・シティの中心街であるドンコイ通りのホテルで、もう一人の案内役のS氏とも合流する。この方は、ラオスの密林をゲリラとともに駆け巡ったり、ゴールデン・トライアングルに潜入したり、という元行動派のライターで、今はベトナムでマグロの輸出業をしている。危ない取材には願ってもない人なのだ。

 私たちが宿泊したのは、その昔グレアム・グリーンが長期にわたって滞在したというホテル・コンチネンタルである。物書きの端くれである私へ、激励と発奮の意味を込めて、S氏が選んでくれたのだった。だから、多少造りが古くとも、お湯の出が悪かろうと、洗濯物がバリバリでも、そんなことは関係ない。日本のホテルの2階分はあろうかというバカ高い天井を、日々ありがたく拝みながら取材に出かけた。

 元難民の話はまさに「冒険小説」の迫力だった

 ベトナム行きの第一の目的は、元難民から直接話を聞くことだった。S氏やH氏の骨折りもあり、4人の元難民(香港やタイの収容所に入れられ、送り返された人々)にインタビューができ、貴重な話を聞けた。

 一口にベトナム難民といっても、80年代後半を境に、政治難民と経済難民にはっきりと分かれる。75年のサイゴン陥落以降に続発したボートピープルは、北の専横を怖れて南の関係者が我先に逃げ出したもので、恐怖のイメージが先走りした嫌いはあるが、まだしもその心情は理解できる。しかし経験難民となると、話は少し違ってくる。

 ベトナムは、食うには困らない国である。田舎に行けば、主食となる米はありあまるほどにある。生き延びるために、新天地を目指そうというわけではない。電話やビデオなど電化製品のあふれる生活を夢見て、家族や国を捨て、小さな船で海へ出てしまうのだ。カンボジアやソマリアの難民とは、事情が違う。そこには、2000年の昔から、海を越えて豊かな生活を得ようとアジア諸国に散り、今なお経済圏を広げつつある、華僑の血が脈々と流れているのではないか。そう思えてならなかった。

 今回話を聞けた元難民の一人は、ボートピープルならぬランドピープルで、陸伝いにラオスを抜け、タイへ逃げた非常に稀な経験を持つ人だった。ラオスとの国境地帯に住む山岳民族の助けを借り、獣道を抜けてジャングルを越える行程は、そのまま冒険小説になりそうな迫力があった。この辺りの詳細は小説に使えそうな話が多く、この場で書けないのがもどかしい。とにかく、海のないラオスは、ベトナムの港を借りて貿易しており、彼はその関係者をよく知る立場にいたわけである。あとは、申し訳ないが、内緒。

 残る3人は、ボートピープルだった。ところが、3人とも、目指す目的地の場所を知らなかった。二人がアメリカを、あとの一人が日本を目指していたのだが、その目的地へ行く船があると聞くと、何の疑いも持たず、ブローカーに金(お金ではなく、純金。ベトナム人は銀行や紙幣を信じておらず、純金で貯蓄をする)を払って船に乗り込んだのだ。



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